季節は巡る

春って色々な草花が彩りを増してきて明るさを感じる季節ですよね。また入学の季節でもあるからでしょうか?何か新鮮な思いを抱かせてくれます。その春の初めの風景には梅の花があります。皆さんがこの寺報を手に取り読まれる頃には、梅の季節を過ぎて桜が咲いている頃かもしれませんが。

そう桜というと皆さんの菩提寺・常圓寺のある伊那谷には桜の名所として全国的にも名高い高遠の桜(高遠城址公園)があります。高遠ほどではありませんが常圓寺境内にも立派な桜の木があり、季節を感じるには十二分なものです。檀信徒の皆さんにも一度は桜の季節に常圓寺にお参りされることをお勧めいたします。

さて話が桜になってしまいましたが、梅もなかなか捨てがたいなと私は思っています。まだ肌寒いなか凜と咲く梅の花に魅力を覚えるのです。この春は私朴宗(ぼくしゅう)が東大和市に転居後初めての春ですが、梅の木がすぐ目の前のお宅の庭にあり綺麗な紅の花を咲かせ、私の気持ちも和ませてくれました。

 そんな紅梅を意識することなく通り過ぎていく人も多くおられることでしょう。一方私が心を向けたくなるのは、そこに私の人生の一頁となる心象が刻まれているからなのかもしれません。実は昨年の二月末に義理の父を見送りました。その頃義父宅の庭にある梅の木が丁度綺麗に咲いていたのです。

これまで単に春の訪れの一風景としてしか見ていなかった紅梅…しかしこの早春にその紅さを目にしたとき、義父を思い起こしたのです。そしてきっとこれから早春が廻ってくる度に紅梅を見る度に懐かしく思い出すのだろうなぁと思うのです。大のテレビ好きだった義父…お釈迦様に怒られない程度にきっとテレビを見ているんだろうな。

と義父について綴りましたが私たち日本人は皆、季節季節に自分の人生を刻みこんできたのだと思うのです。そこには廻る四季に対する親しみが礎にあるのでしょうが、仏教の教えを辞書的に見てみると「廻る」ということについては否定的立場です。

皆さんも単語としてはご存じでしょうが「輪廻(りんね)」という言葉があります。六道というままならぬ世界を廻ることを「輪廻」と呼び、辞書的に述べればそのままならぬ輪廻の世界からの解脱を目指す教えが仏教です。

しかし私は仏教の僧侶でありながら、輪廻からの解脱というものに若干の違和感を覚えるのです。多分それは輪廻という概念が仏教のものというよりインドの思想だからなのだと思うのです。

日本においては例えばお盆…言わずもがなですがご先祖様が帰ってこられる時節、表現を変えれば廻りつつ毎年帰ってこられるということです。これを意地悪く見れば、仏教は輪廻からの解脱を目指しているのに、年に一度ご先祖様が帰ってくるということは解脱できていないってことじゃない?とも言えるわけです。インド的にはそうなのかもしれませんが、私たち日本人は仏教よりもっと深い処で廻ることに親しみを覚えてきたのだと思うのです。

 実はお盆の由来と言われている「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」には『ご先祖様が帰ってきます』とは書かれていません。そう日本のお盆は仏教とはいえ、非常に日本的な風習なのです。

 私が思うに、日本的仏教の『解脱』とは輪廻から脱することではなく、輪廻に留まりつつも安穏であること。さればそれはご先祖様だけの話ではなく、決して清浄とは言えぬこの娑婆世界に生きる私たちもまた、現世にありながら解脱できるということなのです。

 何だか難しいことを言ってしまいましたが、今は春のお彼岸…日本という風土における大切な時期…ご先祖様のご供養の時節です。

紅梅を見る度に私が義理の父を思い出すように、お彼岸となれば先に彼岸へ渡られた方々を思い起こすものです。季節はいつも廻っていきますが、お彼岸が廻ってくる度に懐かしく思い起こす…そういう大切な時なのだなということを、我が事としてしみじみ感じる今日この頃です。