父をおくる

本頁では基本的に御葬儀やお法事にまつわる仏教的なことをお伝えしているわけですが、その視点は専ら「僧侶」という立場からだったわけです。しかし今回私自身が遺族の立場に立つ機会がありましたので、その立場を含んで我が父の葬儀について書き記したいと思います。

実は去る昨年十二月十九日に私の父が満九十三才にて鬼籍に入りました。年齢的には大往生と言われてもよいのでしょうが、内実は(医学的に正しい表現かは知りませんが)一年半もの間植物状態で意思疎通は全く出来ず、栄養は点滴のみ自発呼吸も出来ずに機械で命を保つのみ…という状況を経ての他界でした。

この一年半に対する私の感想が既に僧侶的なのかもしれませんが『彼岸へ渡るべき時節が来ている人を、こちら岸の人間の煩悩で無理に引き留めるのは如何なものか?』ずっとそう思っていました。ですので私は延命に否定的でしたが、延命を強く望む親族もいました。私からその延命を望む気持ちを覗き見れば、究極父のためというより『夫・親の「死」を受け入れられない自分』という問題でした。とは言えそういう思いを煩悩だと切り捨ててしまうのも非情…結局父は既に尽きていた自らの命分(みょうぶん)を越え一年半も頑張ってくれたのだと私は理解しています。

時を父が危篤に陥った一昨年の六月に戻します。私が病院に駆けつけたときには、すでに父の顔は生気を失っており多く拝んできたお亡くなりになった方の顔と同じような顔つきになっていました。そこで私はすぐに葬儀の手配に動くこととしました。多分世間的にはこうしたことを嫌う方も多いのだろうと思いますし、わが親族の中にも「亡くなったわけではないのに」と快く思わない人がいたのも現実でした。

しかし事前に手配しなかったが故に結果的に葬儀社の手のひらで転がされるケースを多く見聞してきましたし、また万が一にきちんと備えることにより看病をはじめとした今現在に心を専らにすることが出来る…と私は常々考えていましたので、日を改めて母を連れて市内のいくつかのホールを見学しました。そうしてみると「こっちのホールのほうがよかった」とか「あそこの担当者はいまいちだった」とか感じるところが色々出てきますから、母がよしとした業者に決め、母は看病に専心。私が打ち合わせを一手に引き受け、各所への手配も含めひと通りの準備を済ませました。

ちなみにその時の危篤からは父は奇跡的に脱し、前述したように逝去まで一年半の時があったわけです。今振り返ればあの時点では母や兄が父の死を受け入れられなかったであろうことを父が慮ってくれたのだと私は思っています。

 そしてその長い時のお陰で諸行無常の理を母や兄たちが受け入れられるようになってきていた昨年十二月十九日の早朝、父は静かに息を引き取りました。

葬儀など歿後の一連については既に一年半前に各所に手配済でしたので、慌てることなく葬儀社に連絡を取りました。その数時間後には父は久しぶりに自宅に戻ってくることが出来、葬儀までの数日間、自宅で家族とゆったりと過ごすことが出来ました。また訃報を聞き及んだ少なからぬ方が駆けつけて下さいました。

さて葬儀ですが、当初母は誰にも知らせず家族葬でと考えていました。しかし父は医者として群馬県に根付きそれなりに地域社会に貢献した人物でもありました。それは即ち家族の知らない人間関係が父にはあり、亡くなったとなればお参りしたい方もいるだろうということです。

そういった事情も鑑みて結局世間でいうところの一般葬としました。町医者としては引退してから久しい齢九十を超えた人の葬儀にもかかわらず、多くの方がお参り下さり多くの供華もお供え頂きました。本当に有り難かったです。

私は親族ではありますがお導師様の脇僧として法要の進行役でもある維那(いのう)をお勤めいたしました。関東在住の常圓寺檀信徒葬と同じくお参りの方と共に祈りを捧げ、出棺のお見送りまでお付き合い頂き、心のこもった懇ろな葬儀とすることが出来ました。

高徳軒医学正輝居士 行年九十三歳
昭和五年に神戸市の菓子屋の末っ子として生まれ、医者としては群馬県にて開業し長く地元に貢献す。また地元紙にて長くコラムを執筆し書籍も出すなど多才な人物でありました。
彼岸の地で安らかならんことを