「慣」ということ

前回の寺報は諸事情によりお届けが遅めになってしまいました。申し訳ございませんでした。今回は秋彼岸に間に合うようお届けできているはずです(原稿執筆時点の予定では…汗)

この頁では時節的なことに触れることが多く、結果コロナ禍の話題ばかりになっているわけですが、その生活の中で私が感じることは良くも悪くも「慣れてしまったなぁ」ということです。慣れは油断にも繋がるわけでして、少なからぬ人が「いま流行っているオミクロン株は重症化のリスクは低いらしい」【→だから大丈夫】という思考になっているような気がします。

ところが【だから大丈夫】かというとそうでもないようで、八月には一日当たりの死者数が過去最大を記録しているのをご存じでしょうか。リスクが低いはずなのに多数の死者…矛盾するように聞こえますが一つにはリスクが低くとも母体数(罹患者数)が大きいが故に死者数も多くなっているのでしょう。また私が見た報道では、コロナに罹患したことをきっかけに基礎疾患が悪化して亡くなるケースが多いという解説をしていました。「自分は若いし基礎疾患がないから大丈夫」と思っていても、自分から基礎疾患を持つ誰かにうつしてしまう可能性はあるわけで、侮ってはいけないように思います。

ちなみに私は現在も引き続き緩やかに徒歩圏内生活でして、いわゆる「レジャー・旅行」とは縁遠い生活を続けております。

さて「慣れ」に話を戻すと別の側面もあると思います。それはコロナ禍に慣れたからこそ極度の不安・緊張を抱えずに生きていけるという側面です。コロナへの恐怖で身も心も縮こまったそういう非常事態のまま過ごすのはストレスがかかりますから、慣れによって日常化することによって気持ちが楽になり生きていけるという側面があると思うのです。そうしなければコロナにはならずとも心のほうが病んでしまうからです。

とここまで「慣れ」について書き綴ってきたわけですが、この「慣れ」は「習慣」という意味合いで仏教とも縁深いということをご存じでしょうか?

実は「仏戒」なるものと「習慣」には密接な関係があるのです。そもそも戒という漢字が「いましめ」ですので大切だということは言わずもがなかと思いますが、日本国憲法のようなものと喩えればその理念性・大切さはよりご理解頂けるでしょうか。

この「戒」は原語では「シーラ」と言うのですが、その言葉には実は「習慣」といった意味が含まれているのです。「戒」と言われると何だか厳めしい感じがして息苦しさも感じなくはないわけですが、平たく申し上げれば「良い習慣」これが仏教の説くところの「戒」なのです。

先ほど「慣れによる日常化」について述べましたが、戒にこれを当てはめてみると「日常の習慣なのでついつい良いことをしてしまうんだよなぁ」というのが仏戒なのです。

この「ついつい」ということについてもう少し掘り下げてみることにしましょう。善行とは縁遠い生活をしている人にとっては「良い行いを心掛けよう」という思いを持つこと自体に意味がありますし、だからこそ善行が出来るとも言えるわけです。しかしその心中を細かく観察してみるに、そこには力みがありますし「俺は善行をしているんだ」と鼻高々な慢心に陥ってしまう危険が確実に潜んでいます。そのことを含め考えてみると、気負いも抜けて善行が習慣化していることが大切だと思うのです。仏戒はまさに習慣化した善行なのです。

しかしそうは言うものの、自分の行いがついつい善行ばかりになってしまう…というのはお釈迦さまや観音様のような諸仏諸菩薩ならいざ知らず、凡夫たる私たちには遠すぎる話で現実味がないかもしれません。

一方でだからといって、煩悩まみれの俗物でいいのか?といえば、それも否でしょう。『365歩のマーチ』ではありませんが、まずは一歩一歩善行に向かおうではありませんか。煩悩で後退してしまうこともあるやもしれませんが、それではまずは一歩一歩、これが大切なのです。(了)