仏教講話 捨~宿香界を通じて~

本頁では、仏教の心理学である唯識(ゆいしき)の大家であられた太田久紀(きゅうき)先生が書かれたエッセー『宿香界』(しゅくこうかい)をご一緒に学んでいます。それでは早速共に学ぶことにしましょう。           (中略あり・改行一部省略)


部屋の前に、大きな楢の木があります。その一枝が、去年、台風で折れ、ぶらさがったままになりました。ところが、どうでしょう。その折れた枝だけは、葉が落ちないのです。全部の葉が散った冬も、春になって若葉が樹木を包んだ時にも、その緑が濃くなって茂ったいまも、その一枝の葉だけは、一塊になってやっぱりぶらさがっているのです。

仏教の教えというとお寺の中であるとか常圓寺の方丈様が教授を勤めておられる駒澤大学のような仏教系大学であるとか、どこか特別のところにのみあるもので、その教えは日常にはないものと皆さんは考えがちかもしれません。しかし古の高僧から太田先生に至るまで身の回りのちょっとしたことにお釈迦さまの教えを見いだすのが仏弟子のあり方で、太田先生はご自宅の前にある楢の木に教えを見られたようです。

ちなみに凡夫たる私は先生歿後ご自宅にお伺いしているのですが、楢の木があったことさえ覚えておらず…何ともお恥ずかしい限りです。


落葉とは、折れることと同じだと思っていました。しかし、そうではないことをしりました。木の葉が散るということは、樹木が生きているからのようです。
生きていなければ、木の葉さえ散らないのです。樹が、生きているから、だからこそ木の葉が散るのです。これは大きな驚きでした。

捨てることは生きることだ。そのことに気づかされたのです。

太田先生の「発見」に私ははっとさせられるものがありました。そうか…『生きていなければ、木の葉さえ散らない』のか、そしてそのことを裏返せば『生きているから、だからこそ木の葉が散る』のか…『捨てることは生きることだ』…色々と考えさせられる言葉です。

捨! 仏教は私たちに「捨てる」ことを教えます。それは、私たちが、捨てられないで、どうでもよいものを背負い込んでいるからです。

ただこの令和四年を生きる一庶民としてはなるほどと思う一方で、財産を巻き上げるのにこの「捨」も悪用されているのでは?と疑われるような事象が思い浮かんでしまうことも確かです。だからこそ、ここでは捨を正しく太田先生に教えて頂くことにしましょう。
何月も前のことを、忘れられないで、いつまでも恨みつづけていることはないでありましょうか。

痛いところを突かれたなと感じるのは、私だけでしょうか。お釈迦さまの教えのもとに爽やかに生きたいと願いつつも、自分の中に潜むどす黒いものを捨てられずにいる私が確かにいます。

ほんのちょっとした世話をしただけなのに、大変なことでもしたように恩にきせていることがありはしないでしょうか。
自分の知識や教養や、財産や地位に、あったらあったで、なければないで、こだわりつづけていないでしょうか。

前出のうち私が最近特に気になっているのは『地位』です。政治家に代表される強い立場にいる人の態度…いけしゃあしゃあと恥ずかしげもなく「自分は偉いから何をしても許される」どうも鼻につくのです。その地位・権力を責務と感じ誠実に務めるのならいざ知らず、そこに執着して煩悩と為し振り回す…何とも恥ずかしい生き方です。

それは――捨てることができないで生きていること。
そうです、自分が、ほんとうに生きていないからではないだろうかと、落ちない木の葉を見あげながら、考えているところです。

そうか…と、ここで再び楢の木のあり方に思いを馳せる私がいます。ほんとうに生きる…「ほんとう」とはなんだろうか?捨て去るべきものを後生大事にしてはいないだろうか?持っていることが慢心になってはいないだろうか?持っていないことが妬みになっていないだろうか?そういうことを太田先生は我が事として楢の木を見あげ佇んでおられるのだろうなぁと思うのです。皆さんの心にもこの気付き・教えが響くことを願うばかりです。