この空のもとに~身内の死~

この頁では御葬儀やお法事などのご供養について等、檀信徒の皆様にとってのある種現実的なことについて述べることが多いわけです。

しかし今回は少々趣向を変えまして、重い問題ではありますが《家族・親族の死》を始点として考えてみたいと思います。

現代、特に首都圏においては死というものが軽く扱われるようになり「供養よりも効率的な処理」といった現実が跋扈しています。そこには法要の簡略化も含まれておりその底には「どうせ理解出来ないものだから短ければ短いほどいい」「やったことにしたいだけ」という考えが潜んでいるように僧侶には感じられます。

では残された遺族の哀しみ・喪失感も令和の世では軽くなっているか?というと、決してそうではないと思うのです。深い悲しみ・得も言われぬ喪失感、親族の死をどう受け止めていけば良いのか?これは変わらず大きな問題だと私は思うのです。

だからこそ供養というものが大切であり、安穏と近しいお釈迦さまの教えが大切になってくるのであり、その教えに基づいた御葬儀やお法事という法要が大切だということにもなってくるわけです。

ではそのことをご理解頂くために歩みを一歩進めることにしましょう。

世間的に考えてみますと、私たちは生きておりそれを当たり前としているわけです。ところが「死」というものは、私たちの大前提である「生」の枠外の話ですので、残された者にとっては受け入れ難いものですし悲しみが深いのも当然です。

ところが僧侶の側はちょっと違う世界観のもとにご法要をお勤めしているのです。その畢竟を言い表す言葉が「空(くう)」です。皆さんもその意味は分からずとも仏教の言葉としてはご存じなのではないでしょうか。

生をこの世の全てのように思い込みそこから死を眺めれば、死は全く別の、手の届かない世界です。しかしながら仏教においては、私たちも故人も「空」のもとでは共に同じ世界にあるとするのです。これは「そう解釈する」ということではなく、それこそが真のあり方であるという意味であり、これが葬儀で説かれていること、展開されている世界なのです。

このことは同時にご遺族にとっては救いとなるはずです。亡くなった今も私たち家族と共に故人はあるのだ…ということですので。

そしてあえて誤読して「この空(そら)のもと、故人も私たちも同じ世界にいるのだ」としたほうが皆さんにはより分かりよいかもしれませんね。しかも誤読でありながらそこにはきちんと仏教があり救いがある…こう私は思うのです。

その上でと言うことですが私たちが葬儀で冀うのは故人の安穏であり、安穏の達人であるお釈迦さまや道元禅師に対し願いを捧げ安穏をお分け頂く…というのが宗門のあり方なのです。

私たちはご先祖様がおられる場所を彼岸と呼びますが、もう少し狭義でいえば彼岸というのはお釈迦さまや道元禅師の安穏の世界・お悟りの世界を指す言葉であり、死者が赴く場所というわけではないのです。

では何故彼岸をご先祖様のおられる場所だと私たち日本人は考えてきたのでしょうか?それは故人を送る側である遺族の「願い」が大きく関係してくるのです。

その願いはいつの時代も故人の「安穏」のはずです。そしてその冀う安穏というのは『お金と権力を振り回し自分の思うように過ごせる(煩悩まみれの偽りの)安穏』では全くなく『お釈迦さまのお悟りの世界である清らかな安穏』これを私たち日本人は願ってきたからこそ、厳密には死者が赴く場所というわけではない彼岸をご先祖様のおられる場所としてきたのです。

さて今はお彼岸。彼岸が安穏のことであればそれはご先祖様だけの問題ではなく、俗世を生きる私たちにとっても大切なことのはずです。世俗の日常に流されがちだからこそ、古の人はわざわざ季候の良い時節をお彼岸とし、ご先祖様を尊ぶと同時に自らのあり方を振り返ってきた…そういう智慧だと私は思っています。