仏教講話 善意をもって見る~宿香界を通じて~

本頁では仏教の心理学である唯識(ゆいしき)の大家であられた太田久紀(きゅうき)先生が書かれたエッセー『宿香界』(しゅくこうかい)をご一緒に学んでいます。それでは早速共に学ぶことにしましょう。            (中略あり・改行一部省略)

菩薩は、無量の善法においてただ功徳を見、ただ真実を見、決定(けつじょう)して、他縁(たえん)に従わず。                 『瑜伽論』
「菩薩は、その善いところのみを見、真実の面をのみ見、決してなにかに引きずられることはない」というのです。


今回は菩薩様…観世音菩薩、地蔵菩薩の菩薩様ですね…がどのようなものの見方をしているか?というお話です。

世の中のことは、見方や視点の違いによって、姿や形が変わります。
一つのことが、善意をもって見る場合と、悪意をもって見るばあいとでは、姿がすっかり変わるのです。

ここのところは個人的に深く頷くところです。同じ言葉であっても信頼を置いている人から言われるのと不信感を抱いている人から言われるのでは、受け取る側の気持ちは全く違うはずです、同じ言葉なのに。どうも菩薩様のあり方は凡夫たる私たちとは大きく異なっておられるようです。

なにごとにも、不平や愚痴ばかりこぼす人があります。多分不平という角度からばかり、ものごとを見ているのでしょう。そうすれば、どこにでも、いつでも不平の種はころがっているはずです。

物事を斜から見ているようなところがある私としてはちょっと痛いと感じるところはありますが熟読するに、ここで太田先生が仰っているのは明らかな差別問題などではなく、「俺をもっと認めろ」「なんでお前ばかりがおいしい思いをしているのか?」というようなエゴの問題ではないのか?と思うのです。そう考えるとこれは他人や社会の問題ではなく、自分自身の問題だと思うのです。

どんな境遇のなかでも、いつも楽しそうに明るく乗り切っていく人もあります。その人の心が、きっと明るいのです。なにかを見究めているのです。明るい心が、明るい人生を造っているのです。

ここでいう「明るい心」が脳天気や軽薄とは全く違うことは、言うまでもありません。

菩薩は、常に善意を離れず、いつも真実の角度からものを見る、その姿勢を崩すことはないというのです。善意に満ちて生きる菩薩には、世のすべてのことが、善き光に輝いているに違いありません。嘘や虚妄に眼は向かず、真実のみに心はむかっているのです。ああ立派だなと、ふり仰ぐ思いです。

正直私はこの太田先生の言葉に、菩薩様はそうかもしれないけれども凡夫たる私はそうはなれないなぁ…と感じざるを得ません。自分自身が明るくないのだなぁ、だいぶ煩悩に侵食されてしまっているのだなぁと感じるのです。

そしてだが私の中で、そんなきれいごとをいっていたら、生存競争に負けてしまうぞと、小声で、つぶやく声が聞こえてきます。

 「そうだよね」という方も少なからずおられるのではないでしょうか。自分はフェアプレイを心掛けようと思っても、手段を選ばない人の方が強者になったりするのが世間ではないのか、きれい事では世の中渡っていけないものだという意見は多いと思うのです。

 しかし菩薩は、善意や真実を貫いて「決定して他縁に従わず」といわれるのです。わがままな私には、菩薩の真似はできぬかもしれません。なにもできなくても、せめて菩薩を描くこの言葉だけは、胸に深く刻みこんでおきたいものと思っています。

菩薩様は清らかかもしれないが、ではこの私はどう生きていくのか?という問題に行き着くように思います。心清らかになどという理想論はどうでもよく現実社会で手段を選ばず強者を目指すのか?そうではない生き方を選び取るのか?

私には勝ち組たる強者になれる能力がそもそもありませんが、あったとしてもそうなりたいとは思いません。菩薩様のあり方が煩悩まみれの自分とは遠くとも、せめてそのあり方だけでも覚えておきたい…そう冀うのです。さて、皆さんはいかがでしょうか。