「終わり」を考える 引き受ける

この頁では御葬儀やお法事などのご供養について等述べることが主ですが、今回は御葬儀の事前相談という繊細な問題を機縁として少し深めのお話をしたいと思います。


皆さんは常圓寺の檀信徒ですのでその事前相談先は常圓寺ないし東照庵となるわけですが、実際にどの程度ご相談を受けることがあるのか?というとそう多くはありません。ご家族の容体が危ういから相談という話ですので「不謹慎な」と怒り出すご家族もおられるやもしれないことを想像するに、少ないのはある意味納得できるところです。

しかし私としては皆様の菩提寺側の立場の一員として、事前にご相談頂くことはこと首都圏においてはとても大切なことだと思っています。

「こと首都圏においては」という点については、寺報を熱心に読んで下さっている方からすると「またか」という話になりますが、首都圏における葬儀社主導の葬儀は供養ではなく処理になりがちだからです。それを避けるために必要なのが菩提寺への事前相談ということなのです。

とここまでは毎度の話でしたがこの裏にはタイトルとした『「終わり」を考える引き受ける』というテーマが隠されています。煩悩に無自覚な私たちは往々にして、自分たちにとって都合のよいことにしか目を向けない傾向があり、都合が悪いこと・考えたくないことである人生の「終わり」から意図的に目を背け、結果葬儀社にいいようにあしらわれてしまったり、終わりを受け入れられずに苦しむことになりがちなのです。

私がこのようなことを強く感じ始めたことには理由があります。

実は齢九十才を超えている私の父(昭和五年生まれ)が半年ほど前から入院しており、客観的にはもう自宅に戻れることはないだろうという状況です。自力での食事はおろか自発呼吸も出来ていませんので、点滴や人工呼吸器によって何とか命を永らえている状況ですし、また意識はあるにはあるようですが意思疎通できる状態でもありません。そもそもコロナ禍で面会することも出来ません。

お医者さんは「もうお年がお年ですし」という感じですし、私が病床へ駆けつけた時には父の顔つきは死者のものと違わぬまで陥っていましたので、私としては「九十過ぎまで元気に生きられたのだからもう寿命と思って無理な延命はしない方がよい」と考えていました。しかし伴侶である母は「終わり」を全く引き受けようとしない人で、先生に食ってかかって言い放った言葉が「九十才は年寄りなんですか!」でした。身内としてはなんともお恥ずかしい限りです。

もしかすると「朴宗さんは自分の親に対して冷たいんだね」と感じられた方もおられるやもしれませんがそれは誤解です。一僧侶として『生きていることが全て。死んだら終わり』という人生観ではないからこその考え・感覚なのです。

そういう仏教的価値観を礎として生きている僧侶の私から、悩み苦しんでいる母の様子を見るに結局自分にとって都合のよくはない「終わり」を引き受けることが出来ないために、父に無理な延命をさせ自らも苦しみ…という状況に陥っているように見受けられるのです。

こういう「終わり」の話をしますと「やっぱり仏教って悲観的なんだよな」と思われるかもしれませんが、そうではありません。お釈迦さまは「自分の都合で世の中を見ることはしない」方だったのです。そのことは結果的に世の人が見たがらない・受け入れたがらない側面を強調することになりますから、皆さんから見ると「悲観的な教え」に見えてしまうだけの話なのです。世の中の有り様・人生の有り様を自分の都合抜きできちんと見る教えが仏教という教えなのです。そうしたものの見方を礎として自分の人生を豊かにしていこうというのが仏教なのです。

老いも病も人生の一側面。亡くなることも人生の一側面。彼岸に住することもまた人生の一側面。老いも病も死も敗北でも何でもないのです。

ならば仏式の御葬儀は勿論敗北の儀式では全くありません。ご本人と家族が自分の都合を擲ち、終わりを受け入れる法要でもあるということなのです。そして事前相談もまた終わりを受け入れる第一歩…言い換えればどのような道であれ次に進むための第一歩なのではないか…そういう風に一僧侶として、そして息子の立場としても思っています。