本頁では仏教の心理学である唯識(ゆいしき)の大家であられた太田久紀(きゅうき)先生が書かれたエッセー『宿香界』(しゅくこうかい)をご一緒に学んでいます。それでは今回もご一緒に学んでまいりましょう。 (中略あり・改行一部省略)
聞法は心識(しんしき)を遊化(ゆげ)す 『学道用心集』
「法の話を聞くと、心が柔軟になり、自由自在に動くようになる」というのです。
『心識を遊化す』と聞くと何だか難しい表現で身構えてしまいますが『心が柔軟になり、自由自在に動くようになる』と言われると、ちょっと聞法に憧れを感じてしまうのは私だけでしょうか。私朴宗は聞法に接したが故にサラリーマンを辞めて出家した身ですので、余計聞法に対する憧れが強いのかもしれません。
『学道用心集』は道元禅師が三十五歳の時の著作です。その終わりの方にある一句です。「聞法」は、真実の教えを聞くこと。「遊化」は、こころが自由自在に動くこと。心の柔軟性です。なんとなく、心を魅かれることばです。「遊」という字があるからでしょうか、堅苦しい感じがせず、ほのぼのとした余裕のある響きが伝わってきます。
「遊」という漢字、皆さんからすると趣味や娯楽或いはあまりよくない意味合いの「遊び」しか思い浮かばないやもしれません。しかし「西遊記」を思い出して頂くと、三蔵法師は天竺に遊びに行ったわけではありませんよね。遊化の遊はこちらのほうですね。
いわれるまでもなく、心は自由自在に動き回っているように思っています。しかし本当にそうなのか。
この視点が如何にも太田先生という気がします。仏教という教えは自らを振り返る教えですから、自分の常識を絶対視せずに一度立ち止まってみるということが大切なのです。
考えてみると、心は自由に動いているようで、実際にはそんなに動いていないのではないか。毎日の暮しの中で、私はマンネリ化し感動を失い、惰性の毎日を送っていないだろうか。もしそうであったならば、心は自由自在に動いているといえないのではあるまいか。
なるほど…「感動を失った惰性の毎日」こそが「遊」から遠いところにあるあり方ということなのですね。但しここで気をつけなくてはならないのは太田先生の言葉を自分勝手な安易な理解で汚して、同じことの繰り返しが多い日常というものを蔑ろにするようなことがあってはならないということです。それは浄土なるものが日常を離れたどこか遠くの話なのではなく、私どもが生きて生活するこの場こそが浄土だからです。同じに見える日々の営みも諸行無常であり、いつもフレッシュであるというのが先生の言わんとするところなのです。そう思って次を読んで頂くと、理解しやすいのではないかと思います。
われわれは、いつの間にか身にしみこんでしまった一つの感じ方や考え方の枠の中に落ち込んでしまい、そこから一歩も離れられないで、マンネリ化した精神で、同じような毎日を繰り返しているのではあるまいか。
このマンネリ化した精神の一側面をエゴと呼び煩悩と呼ぶのだと私は思います。「俺は偉い」「私は普通(相手がおかしい)」というマンネリに自分自身が陥ってはいまいか?そのマンネリによって感動・有り難みを忘れてはいまいか?結果自縄自縛・不自由になってしまってはいまいか?こういうことに思い至ることこそが大切なのではないか?そう思うのです。
「聞法」が威力を発揮してくれるのは、その時ではないのか。「何事も勉強」といってしまえばそれまでですが、そしてそれはもちろんのことですが、その時、何を聞くかが問題でしょう。食物の話を聞けば、心は食物に向きます。健康の話を聞けば、心は健康への関心を深めるでありましょう。
「法」とは、お釈迦さま以来二千五百年の間、多くの先哲たちが求め続けてきた人生の奥義です。その人生の奥義を聞けば、心はきっとそっちを向いてくれるにちがいありません。心が広がり心が柔軟になり、心がよみがえるにちがいないのです。
しかしその聞法も自らのマンネリ化に気づける人でなければ、その教えのフレッシュさに気づくことは出来ないのではないか?太田先生の在りし日を知っている一人として、そんな風に思うのです。