この頁では御葬儀やお法事などのご供養について等述べることを主としていますが、今回はご供養の継承という側面から思うところを述べてみたいと思います。まずは私の体験談からお話しします。
私がお世話になっていた都内のお寺では境内墓地をお参りする際、受処に立ち寄りお線香に火をつけてもらってお参りするという形を取っていました。そのため受処にいる私はお参りによく見える方を自然と覚えることになるのですが、その中に一人のお婆さん…お爺さんの月命日に欠かさず来られる方がおられました。
私はその熱心さに感心していたのですが、同時に少し気になることもありました。というのはそのお婆ちゃんはいつもお一人でお参りに来られていたのです。まぁ平日であればお子さんは働いておられお孫さんは学校で…ということはあったのかもしれませんが、ご家族と一緒というのは一度も見たことがありませんでした。
時が経ちそのお婆ちゃんもご親族に見守られ彼岸へ渡られたのですが、以後その家のお墓には誰もお参りに来ることがなかった…これは実話です。
こういった経験から私がよく檀家の皆さんにお話しするようになったのが「お墓参りには是非次世代の人たちとご一緒に」即ち「供養を継承してください」ということです。
あれだけご供養に熱心であったお婆ちゃん…しかしその懇ろさをお子さん・お孫さんと共有することがなかったが故に、供養の心が断絶してしまったのだと思うのです。
さて、翻って皆さんのご家庭ではいかがでしょうか?首都圏にお住まいの方ですと、施主さん世代とお子さん世代・お孫さん世代では別の場所に住んでおられるというお宅も少なくないと思います。となると尚更この「供養の継承」は簡単ではない問題のように思われます。
まだ同居していれば、お爺ちゃん・お婆ちゃんが毎日欠かさずお仏壇にお参りしている姿を通じて供養というものが自然と次世代に伝承されるかもしれません。しかし息子さん・お孫さんが別に居を構えているとなると…
息子さん・お孫さんの立場から言えば、自分が今住んでいる家にはお仏壇がありませんからお仏壇・お線香・ご先祖は日常ではなく、年に数回実家へ行った時に触れる程度のものでしかありません。
また多くの檀家さんはお墓が伊那にありましょうから「お墓は伊那とかいう長野県の町にあるのは知っているけど、爺ちゃん・婆ちゃんに尋ねないと正確な場所は分からないし、もう何年も行っていない」というほうが当たり前かもしれません。
こうなってくるとです。いくらお爺さん・お婆さん世代が供養に熱心であったとしても、息子さん・お孫さん世代からしたら、お仏壇のことも分からない、お墓のことも分からない、ましてや菩提寺がどこかということも分からない…伊那谷に住んでおられる方からすれば常識である供養のことが、首都圏ではわからないほうが「常識」となってしまっているように思うのです。まさに供養の断絶です。
こうなってしまうと息子さん娘さんがいざ自分が喪主・施主となって御葬儀やお法事を勤めようにも全く知識がないからわからない。ここで菩提寺である常圓寺や関東寺務局の東照庵にご相談下さればよいのですが、こういったお宅の多くは「菩提寺に相談する」ということを知りませんから、供養の気持ちはあるのにそれが生かされないとんちんかんな結果になりがちということがおうおうにしてあるのです。
お施主さん世代の方の中には常圓寺の檀家になっているとは言え、供養に関して否定的な方もおられるのも現実でありましょう。「供養なんていうのは家制度に基づいた昔の忌むべき因習である」というような方向性の考えです。
かつての「供養の継承」は家制度と密接であったと思います。しかし僧侶としてお釈迦さまの教えを学んできた身として、家云々の時代ではないからといって供養を軽んじてよいとはならないということを断言したいと思います。
それどころか個が大切にされる時代だからこそ、その個を成り立たせているご縁が無視されがちな時代だからこそ、濃いご縁のある「ご先祖様」をご供養するということがより大切な時代になったのだと思っています。
個が大切なんだから自分勝手に煩悩まみれのエゴで生きてもよいのだ…等とならないためにも、是非供養の心を次世代に伝えて頂きたい、そう願っています。