人生はまさか

あれは四月二十七日の朝のことでした。いつものように寺務で使っているノートパソコンの電源を入れたのですがおやっ、どうも様子がおかしい…画面が真っ黒のままだ。電源を長押ししてみるとキーボードのバックライトが一瞬点灯するので何かしらの反応はしていると思われるものの画面は変わらず真っ黒のまま。まさか!

どうやらパソコンが逝ってしまった死んでしまったようでした。寺報作りはパソコンで行っていますし、檀家さんの名簿もパソコンの中です。現実的に大変困るまさかの一大事・非常事態に陥ってしまったのです。

しかしこの窮状において救いだったのは手元に未開封の新しいパソコンが運良くあったことです。東照庵はパソコン主・副の二台体制なのですが副機はもう十年近く前の物で限界が来ていました。それを引退させるべく新しいものを買ってはあったのです(※但し多忙で開封できていなかった)ここでその副機が壊れたならいざ知らず、まだそこまで古くはない主に使っているほうが壊れてしまうという想定外のまさかの出来事だったのです!

 慌ててその買ってあった未開封パソコンを急遽セッティング。まだ完全復旧とまでは言えませんが、こうして新しいパソコンで原稿を書けるところまでは漕ぎ着けました。いやぁ…本当に危機一髪な出来事でした。

 まさに「まさか」な出来事だったわけですが、この「まさか」をきっかけとして少し考えてみたいと思います。

 私たちは何ごともなく平穏無事に自分の思うように物事やもっと大きく人生が進むことを願っています。或いはそういったことを特に意識することすらないかもしれません。そして嬉しい誤算は喜んで受け入れるものの、自分にとって都合のよくないものについては深く落ち込んでみたり恨んでみたり…これが私たちの人生ではないでしょうか?
しかし嬉しい誤算も悲しい誤算も考えてみればいずれも「まさか」ですよね。色のついていない誤算なるものに私たちが勝手に色をつけて喜んだり悲しんだりしているだけなのではないでしょうか?勿論各種災害などの「まさか」に逢わないに越したことはないのですが。

 更に一歩踏み込んで考えてみるに、誤算だけが「まさか」なのではなく、私たちの人生そのものが実は「まさか」の連続、「まさか」から出来上がっているのではないか?と私は思うのです。

 今回のパソコンの急な故障…私にとってはまさに「まさか」の出来事でしたが、そもそも私が今こうして僧侶であること…これだって「まさか」なわけです。お寺に生まれたわけでもなく小さい頃からお寺に親しんでいたわけでもなく、大学が仏教学部であったわけでもなく。大学を出た後も一般企業で働いていたわけですし。しかしこういう例を出すと「いやいやそんな朴宗さんのような特殊な例を出されても」と言われる方もおられるかもしれません。

 しかしです。よくよく私たちの人生、特にその始まりについて思いを馳せてみるに、誰一人としてこの親の元に生まれてこようと狙って自分の思い通りに生まれてきた人などいないはずです。産み落とされた我が命が既に「まさか」この親の元に生まれてこようとは…という性質のものなのです。

 そう人生はまさかなのです。そこを見落として自分の思惑を柱として一喜一憂しているに過ぎないのです。ここに気付いた時少し自分の人生が広くなるのです。

 更に言えば一歩進んでみるに、そもそも「まさか」という評価自体が自己都合ですよね。自分の思惑の内側か否かという判断ですので。その枠を取っ払ったところにもっと広大な世界があるのではないでしょうか?

 但し中には「それでは何も判断できなくなってしまう」というご意見もあるやもしれません。ここまでお伝えしたことは仏教の教えそのものですが、仏教の説かんとするところは煩悩まみれの凡夫たる己ではなく仏たる或いは菩薩たる自己…これを人生の軸として生きようではありませんかということであり、凡夫からすればこの教え自体がある意味驚きなのです。そう仏教とは世界が広がる「まさか」の教えなのです。