昨年も同じようなことをぼやいていたようにも思いますが、今年の夏も暑かったですねぇ。ホントにイヤになってしまいます。この酷暑、単なる私の主観ではなく本当に暑かったようです。報道によると昨年夏と並び今夏もまた統計のある1898年以降で最も暑かったとのこと。そんな季節も終わりを迎える頃となりましたが、皆様におかれましては体調を崩すことなく乗り切ることが出来ておりますでしょうか?
私は万全とは言えないものの大きく体調を崩すことなく何とか乗り切りました。がそれは何と言っても大きくはエアコンのお陰。あまりの酷暑に自分の中で変わった価値観はそうそうエアコンです。一年前の寺報で『今やエアコンは贅沢品ではなく命を護るための防災品』と書きましたが、自分の言葉が自分に染みてこの夏は身を護るためと迷うことなくエアコンを活用し、結果何とか乗り切ることが出来ました。有り難や。(※参考までに我が家の日別電気代・8月分のグラフを添付。最も消費の多かった8月11日で電気代436円…これは高いと見るか安いと見るか)
昭和生まれの私が子どもの頃には夏のプールとと言っても結構寒くて震えていたり、水温が上がらず中止になったりした覚えがあります。ところが令和の世においては「暑すぎるので中止」ということがごく普通にあるそうで驚きです。昭和生まれの古い人間の感覚は通用しない世の中…まさに諸行無常を感じざるを得ない時代のようです。
気温が40度を超すことも出てきましたが、人類もそのうち進化して50度くらいまでは耐えられるようになったりするのでしょうか?地球だって勿論諸行無常ですからそういう時代も来るのかもしれませんが、正直勘弁してほしいものです。
昭和と令和では価値観もまた諸行無常の理に基づき変わってきているように思います。その一つが『多様性』でしょうか。
昭和の頃を振り返ってみると、この世の中は本当は多様性そのものなのにあの頃は少数派・マイノリティが虐げられていたり、存在そのものが無視されていたんだなぁということを、今だからこそですが感じるわけです。この意味において多様性が謳われるようになってきたことは喜ばしいことのように思われます。
その一方で多様性の名の下に《何でもあり》になってはいまいか?という問題もあるように思われます。『どう考えてもそれは煩悩、我が儘、自分勝手では?』ということもまかり通ってしまっているというか、こういう人の方が現代社会では案外地位とか権力を保持しており、自らを顧みるということを知りませんから強気で、はた迷惑を越えて社会の害になっているように感じます。国会議員や知事などに勃発している諸問題などはまさにその典型で、多様性ではなく「恥知らずの何でもあり」の様相です。私が思うのは議員さんというのは有権者の一票一票によって支えられているにしか過ぎない存在なのに…ということです。とここで私はその自分の言葉にはっとしました。
私たち一人一人の存在だってそれぞれ尊い一票を持っている諸々のご縁の塊にしか過ぎないというか、その代表者に過ぎないのではないか?であれば自分の煩悩を礎に好き勝手にしてよいわけがないのが真実相なのではないか?
365日そういうことを考えるのは僧侶だけでよいのかもしれませんが、時はお彼岸。ご先祖様という自分を形作っているご縁の中でも大変大きなご縁に感謝する時節です。『俺が俺がの《が》を捨ててお陰お陰の《げ》に生きる』この言葉に思いを馳せたいと思います。