唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第四回です。今回は『精神分析学との対比を通じて』です。唯識とは仏教における深層心理学…という紹介を私朴宗はしてきましたが、となると西洋心理学(精神分析学)との違いといったことが気になってくるわけでして、今回はそういった視点でのお話です。
このテーマにおいて先生が注目されたのが、精神分析学についてその歴史を見てみると「病人」を礎として発達してきたという点です。一方の唯識はというと病人は出てきません。唯識というのは精神分析学のような治療のための理論ではなく、健康な人間の健康な生活の中で出遭う心の限界といいましょうか、そういうことが中心テーマなのです。
更に説かれるには、毎日の健康な生活・健康な暮らしをする中で「あぁ自分は浅い心しかもっていないな」と「もっと深いものが見えるはずだな」と「知らず知らずのうちに人様に迷惑をかけているな」と、そういうことを振り返って自分に語りかけていく、これが唯識だと言われるのです。健康な生き方をしている人が自らの煩悩に気づき清らかさを求めていくのが唯識ということですが、世間の現実を見るに自らを振り返ることなく自らを正当化して煩悩を振りかざす人のなんと多いことか。やはり人間には学びが必要だとひしひし感じます。
また先生は「修行」について「人間が真面目に自分の人生を生きていくことが修行」であると述べておられます。とても興味深い解釈です。修行と聞くと皆さんは「それは和尚さんの話で、自分たちには関係ないだに」と思われるやもしれませんがそうではないのです。真面目さは誰にでも必要なことですので。そういった誰にでも関係あることが修行であり仏教であり唯識なのです。そしてその真面目さの礎に自らのエゴ煩悩ではなく仏教を礎とすることが人生の上で大切なことなのです。
禅の世界で重視される教えに「脚下照顧」という言葉がありますが、真面目に自らのあり方を顧みる…ここまで説かれてきたことそのものです。そしてその振り返りの中で自分の至らなさ・煩悩に気付いていく。繰り返せば最初に健全な生活というものがあり、その健全な生活の中で自分の心の浅さ…そういうものに気付いていく。そして自分の人生を掘り下げていく、これが唯識なのです。決して不健康な病気の状態、ノイローゼになったから唯識を勉強するのではないということなのです。
毎日の生活の中で、私どもがどんなに浅い認識しかしていないのか?心が浅ければ深いものは見えない。自分の背が低ければ高いところは見えない。背が高いといつも人を見下している自分がいる…自分の器でしかものを見ていない、そのことを知ることが大切なのです。その限界を知ることを通じて、心を少しでも深め広げることが出来るのです。
そしてきちんと私たちが認識しておかなくてはならないのは私たちは自分の心を通じてしか世界を観ることが出来ないということです。これを唯識では人人唯識(にんにんゆいしき)と言いますが、対して世間の多くの人は自ら意識しているかどうかは別として「自分は客観的に物事を見ている」と信じてはいないでしょうか?言葉を換えれば「自分(の認識)は全うだ・まともだ」と誰しもが、物議を醸している某県知事でさえ思っているわけです。
ここで私朴宗が思い出したのが先日読んだ新聞記事です。脳科学者の方が興味深いことを述べておられました。
脳はとにかく省エネがしたい臓器なのだそうです。しかし外界の全てをいちいち認識するのは大変な労力…そこで脳が発明した驚きの方法が過去の記憶や経験からあらかじめ「世界のモデル」を作っておき、その世界を見るという大胆な戦略なのだそうです。則ち私たちは脳が作った仮想世界を生きているに過ぎない…こう述べておられたのです。まさに人人唯識そのもの、私たちは自分の心を通じてしか世界を認識できないのです。
であれば世界の礎である自らの心の有り様、その浅さ・限界を知ることが大切なことは言うまでもありません。そしてその学びの姿勢の先に世界の広大さ、自分という存在の広大さも立ち現れてくる…それが太田先生、唯識が説くところなのです。
次回からは法相二巻鈔の本文に入れればと思っております。