唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第五回です。いよいよ今回より本文に入っていきたいと思います。
凡そ我宗の意(こころ)、法門を立ること義門區區(くく)なり。且らく唯識・三性(さんしょう)・百法・四縁・種子(しゅうじ)・五性・作業(さごう)・受果、五位の修行に付て、形の如く記し申候(もうしそうろう)。
難しい専門用語はさておきまして最後に「申候」(「申し上げます」の意)とあるのでこれが手紙であることがわかります。そしてこの手紙は高僧良遍さんが自分の母親宛に出したものだというのだから驚きです。私が母親の立場なら正直「難しい仏教のことを書かれてもなぁ」と思ってしまいますが、こうして現代まで唯識の教えが引き継がれていることを考えると有り難い限りです。
先ず一切の諸法は皆我心を離れず、大海・江河・須弥(しゅみ)・鉄圍(てっち)、見ず知らぬ他方世界、浄土菩提、乃至一實真如の妙理まで、皆ながら我心の内にあり。何況(なんぞいわんや)我身の頭目・手足・衣服(えぶく)・飲食(おんじき)等をや。之を心の外に有りと思ふは、迷乱也。
先に少し言葉の解説をしましょう。『大海・江河』は大きな海・川のこと、『須弥』と『鉄圍』はどちらも仏教というか古代インドの世界地図に登場する山で、須弥は世界の中心にそびえ立つ高い山、鉄圍は世界の一番外側を囲んでいる山のことです。お寺のご本尊様をお祀りし供物をお供えする場所のことを「須弥壇」(しゅみだん)と呼びますが、これもこの須弥山(しゅみせん)が由来となっています。
次に『他方世界』…世界の中心に須弥山がそびえ立ちその周りが海になっていてそこに私たちの娑婆世界がある、更にその外周に鉄圍山がある…そういう世界観なわけですが、現代人的に捉えればそれは地球のことなわけです。ということはです…地球以外にも別の惑星があるわけで古代インド人もまた同じように考えたのです。全く自分たちがあずかり知らぬ世界がどこかにあるのだろうと。それが『見ず知らぬ他方世界』というわけです。
そして『乃至一實真如の妙理』とは所謂真理のことです。そういったものの全てが『皆我心を離れず』全ては皆私の心の中の出来事だよということを説いているのです。客観的世界の中でこの私が生きている…という世間の常識とはかけ離れた教えなわけです。この世界も真理も全て私の心の中のこととなれば当然『何況我身の頭目・手足・衣服・飲食等をや』となるのは当たり前のこと。これらをまとめ直すと『之を心の外に有りと思ふは、迷乱也』となるわけです。
こういう唯識の考え・発想を現代人の私たちがどう受け取ればよいのでしょうか?考えてみるとこの世界を認識するその主体たる「わたくし」というものがあってその「わたくし」がこの世界を観ているわけですから、唯識的世界観も分からなくはありません。それでも現代人が納得するのは難しいように思いますので、私はこれを客観的事実というより我が人生における真実と受け取ったほうがわかりやすいかなと思っています。この「わたくし」が消え去ってしまえばこの私にとっての世界も消えてしまうわけですから。
ここで再度お伝えしたいのは、前回ご紹介した脳科学者の話です。
脳にとって外界の全てをいちいち認識するのは大変な労力の為省エネを実現すべく脳が発明した驚きの方法が、予め脳内に過去の記憶や経験から「世界のモデル」を作っておき、その世界をみるという大胆な戦略なのだというお話。即ち私たちは脳が作った仮想世界を生きているに過ぎないというのです。まさしく唯識的なお話です。良くも悪くも私たちは自分の心を通じてしか世界を認識し得ない存在なのです。
さて本書のタイトルは「法相二巻鈔」でしたね。法相というのは人相・手相と同じで「法」(すべてのもの)の相、ものの姿が法相です。これを上下二巻に分かれて「鈔」(大切なところを抜き出して説く)だから二巻に渡る抄、法相二巻鈔となるわけです。その最初として『一切の諸法は皆我心を離れず』を学びました。以下次回。