法要は世間を超えている

本頁では基本的に御葬儀やお法事にまつわる仏教的なことをお伝えしております。今回は大分上段に構えたタイトル『法要は世間を超えている』となってしまいました。しかしそこには私なりにお伝えしたい思いがあってのことです。

葬儀やお法事といった法要は勿論「故人のため」であるわけですが、一方で現実はというと故人そっちのけ…ということも少なからずあるように思います。「親戚に声をかけると話がややこしくなるからやめておこう」「やらないわけにはいかないから一応はやるけど簡単でいいだろう」どうしてもそこには家族・親戚の人間関係や世間的な見栄、単なる風習だからという軽視、そういった現実が覆い被さってくるように思います。直葬などはそういうあり方の最たる一例かもしれません。直葬というのは僧侶的には「何もせず処理だけする」ということですが、恐ろしいことに直葬を以て「葬儀はした」と本当に思っている方がこの世の中にはおられるのです。

勿論諸事情…特に経済的な問題でそうしか出来ないことはありましょうがそれは別として、遺族の意志として「直葬でいいでしょ」という場合も少なからずあるようです。火葬場の炉前でお経を一巻だけでもあげるのはまだましで、家族だけで火葬「処理」のみ…葬儀業者に尋ねてみますと、それなりに件数はあるようです。

ここで少々話が脱線しますが直葬で思い出す話があります。これは埼玉県のと或る町での出来事、葬儀社さんから聞いた話です。そのお宅は一家の主の死に際して火葬のみ・直葬だったそうです。しかし供養の気持ちがありそうな多くの親族が集まったというのです。


これを解説しますと、そのお宅は生活保護を受けている家でした。そしてその自治体では葬儀は「不必要な贅沢な物」という位置づけらしく、生活保護を受給している場合には葬儀は認められない、直葬しか許されない。そこで仕方なくの直葬…というお話です。私は本当にビックリしました。亡き人を悼む葬儀が贅沢品扱いとは。


話を戻します。徐々に本題へ近づきますが「お経はあげずに食事会だけ」であるとか「自分演出のお別れの会」を以てそれを葬儀やお法事と同等と位置づけている場合があることも、宗教者としては問題だなぁと思っています。


 こういった思いがあって今回のタイトルを『法要は世間を超えている』としたのです。
話をまとめると、大切なご供養の法要が単なる世間の行い、パーティをするかしないかレベルになってしまっているということなのです。確かにお法事であっても葬儀であっても「単なる昔の風習」としてしまえば、やるやらないは自由だし、もうお経はあげずにみんなで食事すればいいんじゃない…なんてことにもなるのでしょう。

しかし私は僧侶としてこういった世間の流れにとても違和感を覚えるのです。そして同時に不思議でもあるのです。どうして宗教的な祈りを捧げようという気持ちにならないのかなと。


葬儀も法事も世俗のパーティではないのです。神聖な行いなのです。決して誤った世間的な感覚で牛耳ってはならないものなのです。日本のみならず世界のどこにおいても宗教者が導師を勤める形で行われるということには、きちんとした意味があるのです。

しかし最近は残念なことに「法要は神聖なる行いなのだ」という認識自体を全く持ち合わせていない、葬儀やお法事をしないことに何の悪びれた気持ちもない人が少なからずおられます。宗教者として何とも寂しい悲しい限りです。


法要を世間の行いとして捉えたとしても、せめて御葬儀・お新盆・一周忌・三回忌まではお勤めしてほしい…そう思っています。

故人を中心に据えて、亡き人に祈りを捧げる。お釈迦様や道元禅師のお悟りの言葉・安穏の言葉を以て故人の安寧を祈る…私はそういったことが本当に大切だと信じ、皆様のお宅のご供養をお勤めしています。