唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第七回です。今回は先生自身の言葉そのものを私の説明少なめにてご紹介したいと思います。
これ《注『皆ながら我心の内にあり』》が、唯識の教えの原点であり、根幹なんですけれども、これがなかなか分からないんです。…中略…世界は自分の心の外にあると、普通に私たちは思っているのです。
『世界は自分の心の外にある』これが世間の常識であるわけですが、そうではないと説くところが唯識の唯識たる所以です。ここで太田先生は一例として自らの体験談を持ち出されます。
わが家のテレビの画面がぼけてきたようで、「そろそろテレビの買い換えしなきゃいけないね。」と私が言ったんです。そしたら息子が「なんで?」って言うのですね。それで「いや、画面がぼけてきたじゃないか?」と答えると「えっ、どうして?」と、こう言うんです。そこで私もハッと気がついてみたら、画面がぼけているんじゃないんですね。私の眼のほうがぼけているんです。私の目が老眼になってきているんです。
日常生活でよくある笑い話と言えば確かにそうですが、あくまで仏教の学びの為に出された例であることを忘れてはいけません。もう一つ具体例を挙げられます。
私の同級生に色弱の人がいたんです。…中略…紫陽花の花を授業で描いたら先生が…中略…その僕の友だちの絵を見てですね、いきなり絵をパッと取り上げて、みんなに見せて「こんなふざけた絵を描いているやつがいる、ふざけるんじゃない!真面目に描け!」と、そう言って、怒ったんですね。
仏教の学びとしてこの話を聞くと、色々と考えさせられるものがありはしませんでしょうか。同級生の子は自分の眼に映った通りの絵を描いた。しかしそれは先生の眼に映るものとは異なっていた。世間的には「先生が怒るのも致し方ないよね」ということなのかもしれませんが、仏教の学びの観点から見れば結局誰しもが各々自分の眼を通した世界しか観ていない→自分の心の中の世界にしかすぎないということなのです。そしてここに脚下照顧…自らのあり方を見直す機縁があるのです。
紫陽花の花だとかというものならまだ分かるんですよね。なるほど自分の眼が色弱だと花の色が正しく見えないなぁということが分かってくる。ところがこれがもっとですね、抽象的な仏さんの智慧であるとか、あるいは真理であるとかいうようになってきますと、そうするとどうなるのか。自分の心でこうだと思って、そしてそれが仏さんだと思う。自分でこれが真理だと思う、そして、これが真理だ、間違いなく真理だと主張するんですね。どこまで私たちが仏さんの智慧が分かっているか、真理が分かっているか、実際のところは分からない。自分の心で受けとめられたものにもとづいて、これは真理だとか、これが仏さんだとかというふうにいうしかない。けれどもそう言うしかないけれども、そう言うしかない捉え方というものは、実は非常に危ないということですね。危ない、自分勝手な解釈かもしれない。自分の思い、或いは自分の主観、あるいは先入観や偏見、こういうものでですね、私たちはものごとを見ているのではないのか。自分の主観で見るとか、先入観で見るというのは、自分の思いですよ、自分の心でものを見て、確かに見えたと思っていることなんですね、これが怖いですね。
私たちは自分の力量でしか仏の世界を捉えることが出来ない…悲しいことですがそれが現実です。一方で自らを深めればそれだけ世界が広がるという希望でもあります。ここで私が大切だと思うのは、自分の理解力でしか仏は捉えられないからこそ「わかった」という態度ではなく、仏を仰ぎ見る・仏にかしずく…そういうことが大切なのではないかということです。そして私は生前の太田先生をよく存じ上げておりますが、唯識を説く側の立場におられながら、仰ぎ見る・かしずく…こういった生き方の方であったなぁと、懐かしく太田先生の姿を思い出すのです。