こころの世界を観る~その10~

唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第十回です。まずは二巻抄の本文を枠内にお示しし、用語解説中心となってしまいますが太田先生の言葉に自分の言葉を混ぜながら、お伝えしていく形としたいと思います。

此僻事(ひがごと)の形を滅し失せて、不思議の無漏(むろ)智を発し、内に一心を覚るを、唯識真実の観と名づく。

是に五重あり。其第一の遣虚存実(けんこぞんじつ)の唯識と云ふは此不思議の一心の中に、性(しょう)あり、相あり、性は即ち真如の妙理なり、是を円成実性(えんじょうじつしょう)と名づく。円満成就して本来凝然(ぎょうねん)なるが故なり。相は即ち有為(うい)の諸法なり、是を依他起性(えたきしょう)と名づく。彼の真如の上に、他の縁に依て仮に起れる相なるが故なり。

まず最初に『僻事』ですが、この前段で書かれていたことを指しています。唯識は端的に言えば「外界と思っている世界も全て我が心にすぎない」という世界観なわけですが、世間的な常識…外界にものがあって私たちが客観的にそれを見ている…そういう世界観をここでは僻事と呼んでいるわけです。

次に『唯識真実の観』の「観」と『不思議の無漏智』の「智」です。「観」は深く物事を見つめる・細やかに心を見ていくこと、一方の「智」は般若の心即ち仏の智慧です。ここで大切なのは観と智が相互作用の関係…深く「観」ることによって「智」が磨かれそれによってますます「観」が深くなる…そういう関係だということです。『この相互作用によって我々は人生に触れ、その含蓄を味わうのです。』こう表現されるあたりが太田先生らしくもあり私が惹かれるところでもあります。

次に『遣虚存実』ですが「遣」は移す、除くこと。「虚」は虚しい、「実」は本当のもの。虚しいものを除けて、人生の本当のものを残していくという意味です。

次に「不思議」です。これは現実の私の心のことです。「思議」とは色々思い量る・考えて議論することですが、それが出来ないのが不思議。心は何かを思議出来る一方、心自体を思い量ろうとしても自分では出来ていると思っても、対象化された心は既に心ではなく心の影に過ぎないから「不思議」なのです。しかしだからといって思議をあきらめてよいわけでもない…ここで太田先生は前島さんという彫刻家の話を出されます。

この方が言っておられました。ものを創る時は本や何かで資料を集めて勉強するんだそうです。すると、なかなか作品が出来なくなると仰っていました。かといって勉強しないと作品が甘くなると。厳しいですね。これも同じような世界ですね。思議出来ない心、けれども思議しなければもっとわからない心。難しいですね。

深い話ですよね。

次に『性あり』。「性」は真如・真理。不生不滅の世界でありこれを円成実性といいます。「如」はそのまま、ありのままということです。心の奥底にある永遠の真実は、無常と無我です。仏教で言う「無我」とは全てのものが助け合い支え合って生きているということで、対する「我」は孤立した存在。仏教では完全に独立した「我」など存在しない、常に移り変わっていく「無常」だと説くのです。ですから私たちの真理もまた無常無我なのです。

「性」に対する「相」は有為の諸法ですが、「法」とは消滅する世界です。性の上に立ち現れる姿が「相」です。私たちの喜怒哀楽…これが相。しかしその底にある性は変わりません。他との関わりによって様々な相が生じていくのです。生きているその人の、心の、そのまま(真実)の、姿の中に真理がある。真理・真如は遠い世界の話ではない…こう太田先生は説かれるのです。

今回はここまで。本文にある「依他起性」は次回以降ということで。紙面の都合で大分濃縮しておりわかりづらかったやもしれませんが、ニュアンス・エッセンスを感じ取って頂ければと思います。