唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第十一回です。テキストに従っていきますと今回は先生が思い出を語っておられる部分になるのですが、それもまた仏教のお話となっておりますので、ご紹介していきたいと思います。
太田先生は学者の道を歩まれた方ですが、生まれは鳥取県にある曹洞宗のお寺です。お父様がお寺の住職だったということですが、そのお父様の三十三回忌に際し鳥取に戻られた時のお話です。
先生が生まれ育ったお寺は雲水さんが二十人程はいつもいるような修行寺でした。その中に小学校高学年の「としおさん」という人がおり、まだ学校に上がる前の太田先生はとても懐いていたのだそうです。しかし当のとしおさんからしてみれば、どうであったか?何かしらの事情でお寺に出された上に、我が儘勝手な小さな子供の面倒まで見なくてはならない…悲しい記憶かもしれません。一方の先生はといえば東京の大学で教鞭を執るようになり、としおさんのことをすっかり忘れている。
ところが三十三回忌の為に鳥取に戻った時にふっとその名前を思い出されたのです。誰にでもありますよね。普段の生活では全く忘れているのに、ある時ご縁のある人を突然ふっと思い出す瞬間が。
その時に先生が感じたことが『あぁ!人というものは、普段は忘れていても、多くの人にお世話になっているものだなぁ。』先生がよく説かれるところの《人は多くの縁に支えられている》ということですね。しかし私もそうですが、ほとんどの人はそういうことを忘れ去って我が物顔で生活している…そうは思いませんか?この話のあとでこうお話しになっています。
仏教ではこれを「冥利」或いは「冥加」という言葉で表すのですが、自分の気持ちの上にのぼってこない利益ですね。御利益或いはご加護ですね。自分では知らない、目に見えない御利益を受けている。あるいは、自分では気がつかないご加護をいただいているというのを冥利とか冥加というんですね。それをふっと思い出したのです。
そして先生はここから『そんな言葉はないけれども』と前置きしつつ『冥罪』なることに思いを馳せるのです。冥罪…平たく言えば《自分が迷惑をかけていることを忘れている罪》とでも言えましょうか。有り難いご縁を忘れていると同時に、大いに人様に迷惑をかけたご縁も忘れてしまっている…それが私たちの現実相なのではないでしょうか。
ちなみに法要後、参列者の一人から話しかけられるも、太田先生はその「丸山さん」という方に覚えはなし。しかしよく伺ってみると何とその方、更にもっと小さい頃の太田先生の面倒を見ておられた方だったのです。小さいから覚えていないのは当然と言ってしまえばその通りですが、もう思い出すことが出来ないご縁にも自分という存在は支えられているのだ…これが太田先生のまなざしです。
さらにここで曹洞宗のお唱え事の一つである『懺悔文』…『我昔所造諸悪業』という言葉で始まりますが…それを取り上げて次のように述べられます。
考えてみると私どもはそんな悪いことばっかりしているわけではありませんし、おそらくここにこうしていらっしゃっている方は、人のものを取ったりですね、殺めたりというふうなことをなさっているはずがないわけです。「諸悪業」なんて言われても、そんな悪いことはしていませんと思いますよね。だけれども、ここでなぜ、「諸悪業」というのかというと、私はこのことだと思うんです。自分では気がつかない罪。…(丸山さんのことを述べて)…あぁこれが「我昔所造諸悪業」だなぁと。自分では気がつかないのに、人様に迷惑をかけている。…こっちは平気で幸せに暮らしていながら、その自分の幸せが隣の人の心を痛めているということがあるんだなぁということを思い出したのです。
ならばです。これはもう祈るしかない…私はそう思うのです。自分では気付けないのですから。しかしその気付けない自分を省みる、そして祈りを捧げる…そこに人生の深さというものが立ち現れてくるのではないか?そう思うのです。