唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第九回です。大元の講義録を読み進めると今回は寄り道的話題でしたが、その部分も拝読して参りたいと思います。仏教用語が云々と言うより太田先生が説かれる平易なお言葉をどう感じるか?というところでしたので、私も今回は所感を加える形といたします。
涅槃経に曰わく
無常有二種 一敗壊無常 二念々無常
人只知敗壊無常 而不覚念々無常 『宗鏡録』
『宗鏡録(すぎょうろく)』とは、北宋の僧・永明延寿(九〇四~九七五)が撰述した仏教論集だそうです。
この祖録の中に「涅槃経」の一説が引用されています。「無常に二種あり。一つには敗壊(はいえ)の無常」今ごろですと、色づいた葉が散っていきますね。《註:本講義は昭和六一年十一月》 花が散る、物が壊れる、移り変わっていく、これが敗壊の無常。「二つには念々の無常」念々の無常というのは、今、この瞬間の私たちのひと息ひと息が無常ということです。
表現は耳慣れませんが敗壊無常の説明は世間的にも理解されるところですね。一方の念々無常はというと、なかなか実感が湧かないのではないでしょうか?
大智禅師(大智祖継 一二九〇~一三六六)の偈頌にも「二十年も三十年も及び一生もこの一日一夜にて候」とあります。これは「念々の無常」ですね。
大智禅師…私朴宗にとってはかつて馴染んだ名前です。というのは私が修行した四国のお寺では定期的に拝読、何度も何度も身体に染み込むほど拝読していたからです。久しぶりにそのお名前を目にして、懐かしく雲水時代を思い出しました。
私たちは二十年、三十年の間には、言葉に尽くせぬ色々なことがあり、多くの方々との出逢いがあります。今日という日に出逢って、私の今日の人生を頂いている。それが積み重なって一生となる。今日という日が私の人生のすべてである、今日一日に人生の無常が凝縮されているということです。
ここで出てくるこの太田先生の言葉の味わいをまだまだ私は分かっていないのだろうなぁ…と感じながら拝読しました。ここでふと「この講義当時、先生はお幾つであられたのだろうか?」と気になり調べたところ、御年五十八歳…何と今現在の私朴宗と同じ年齢です。修行と学びがまだまだ足りていないなぁと痛感することしきりです。
四国のある修行道場に縁がありまして、最近お話しさせて頂いたときに、大智禅師のこの言葉を堂頭様がやさしく解説されていたのを拝聴したものですから、この言葉に特に感銘したのです。そのお話しとはこうです。
私はうわっと思いました。というのはここで言う四国のある修行道場とは、私が修行した瑞應寺のことであり、堂頭というのは楢崎一光老師…私も一応はその門下にあると同時に生前の老師から絡子を授かった最後の雲水がこの私であるからです。
「二十年三十年も及び一生もこの一日一夜にて候」というと、若い人はすぐ「だから一日一日を一生懸命やらなければ!」と力む。私自身も若い頃はそうだった。だが、この文章は、そういった短絡的な意味合いではなく、もっと静かに、人生の己の姿をじっと見つめていく、人生を頂く、味わっていく無常があるのではないかと、今ごろ思う。……こんなふうなお話でした。私もそう思います。
私は静かで力の抜けた味わいあるお話だなぁ…と思うのです。ここで太田先生がよく言っておられた諸行無常・諸法無我の言い換えを思い出しました。諸行無常とは全てのものの移り変わる真相。諸法無我とは全てのものの支え合う真相。これを踏まえると涅槃経も大智禅師・太田先生の言葉もより染みてくる、そう思うのです。