こころの世界を観る~その2~

真面目に仏教のことをお伝えしている本頁ですが、前回より『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』という新しいテキストに入りました。太田先生の講義録に従って少しずつ…という形にて、共にゆっくりと学んでいくことに致しましょう。今回は『三蔵法師』について。

『三蔵法師』と聞けば皆様の頭に浮かぶのは西遊記でしょう。かの三蔵法師は『玄奘(げんじょう)』というのがお名前であり、実は三蔵法師という呼称は個人名ではなく『三蔵を熟知しておられる偉いお坊様』という意味合いなのです。ですので仏教の歴史上には玄奘さんではない別の三蔵法師もおられます。

ではそもそも『三蔵』とは何ぞ?というのがここからのお話です。仏教という大きな枠組みには色々な分類があります。それこそ御宗旨というのも一つの分類ですよね、曹洞宗とか真言宗とか。また一般の方からすると仏教の言葉はすべて「お経」という印象かと思いますが、これは広義の意味であって学問的にはこの広義のお経を三つに分類するのです。経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)の三つです。

経蔵…これが狭義の意味でのお経ということになります。般若心経などはこの狭義の意味のお経に含まれることになります。(※仏教に詳しい方であればこれに異論もありましょうが今回は省略) 次に律蔵…これはお釈迦様がお教えになった具体的な細々とした生活の仕方をまとめたもの。即ち経蔵・律蔵いずれもお釈迦様が説かれたものということです。

それに対して論蔵はお釈迦様が説かれたものではありません。こう聞くと皆さんは「お釈迦様が説かれたものでないなら仏教ではないのでは?」という素朴な疑問を抱かれるかもしれませんが、論蔵も立派な仏教ですし実は本頁でずっと学んでいる唯識はこの論蔵に属します。端的に言えばお釈迦様の教えに関する「論文」が論蔵なのです。

もう少し説明することにしましょう。お釈迦様は学者ではありませんので、組織的・体系的に「仏教とはこれこれこういうものである」と説いておられたわけではありません。お弟子さんが何か質問をすると、その度毎にそれに答えてお話しになる。或いはお弟子さんが何か失敗したときに「あぁ、それはしちゃいけないよ。その訳はね…」と言って随時その場でお諭しになる。これを仏教用語で「対機(たいき)説法」と言いますが、個々のお弟子さんや信者さんに合わせてお説きになっておられたのです。そのためお経の言葉や律に説かれていることは非常に幅が広いと同時に、中には矛盾することも含まれているわけです。

しかし矛盾するからおかしいのだということでは全くありません。例えば真面目過ぎる人に「人は不真面目なくらいでいいのだ」と言った傍らで、不真面目な人に「真面目にやれ」と発破をかけることもあるようなものです。

お釈迦様在世の折には、疑問や矛盾があればお釈迦様に教えや真意を請えば良かったわけです。しかしお釈迦様が亡くなられて弟子同士で教えをまとめようとすると、先に挙げた例のように同じ一人のお釈迦様という方が矛盾することを仰っておられることも多々出てくるわけです。

 となるとお釈迦様の言葉である経や律についてそれらを組織的に整理をして、お釈迦様の真意というものを理論立てて深めていく必要が生じるわけです。これが後に「論蔵」となったわけです。ですから論蔵はお釈迦様の直説(じきせつ)ではないものの、やはり大切な仏教の教えには違いないわけです。但しこういった成り立ちの故、非常に理屈っぽく取っ付きづらくもあるわけです。

 そして前述したように、ここまで皆さんと共に太田先生の言葉を通じて学んできた「唯識」はこの論蔵に属するわけです。桃栗三年柿八年ではありませんが仏教の世界で昔から言われる言葉に『唯識三年倶舎(くしゃ)八年』(※倶舎も仏教の一つのジャンルです)という言葉があります。それだけ大変で難しい分野だという意味ですが、私朴宗に言わせれば唯識百年倶舎千年です。そういう難しい教えではありますが太田先生は『仏教の基本になる考え方、お釈迦様の教えの非常に大事なところを説いている仏教』と仰っており、それは即ち万人にとっても非常に大切な教えであるということなわけです。

このように難解だけれども大切な教えである唯識を求めてはるか天竺を目指されたのが、玄奘三蔵…三蔵法師なんですよと言ったところで、今回は終わりにしたいと思います。