こころの世界を観る~その8~

唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第八回です。今回は法相二巻鈔の本文を挙げ、太田先生の言葉を礎として私が言葉を足していくという形で進めて参ります。

皆(な)がら我心の内にあり。何況〈なんぞいわんや〉、我身の頭目・手足・衣服〈えぶく〉・飲食〈おんじき〉等をや。之を心の外に有りと思ふは、迷乱也。

ここで言われているのは『みんな自分の心で勝手に作ったものを見ている』ということです。太田先生はその例として中国奥地での羊の肉を取り上げられます。現地の人にとっては「美味しいご馳走」であっても、日本人からすると臭いがきつく遠慮したいものだそうです。この例で言わんとしていることは、先に主観性・先入観がありその枠組み内でしか物事を見ることが出来ないということです。そこを越えられない以上、客観的な事物などないというのが唯識の捉え方なのです。

此(の)迷乱に依るが故に、無始より以来〈このかた〉生死に輪廻する身となれり

この解説については太田先生の言葉を直接引きましょう。『結局は自分の思いの中で私どもは生き死にしている、自分の心にとらわれながら、その中で暮らしを続けていくというような身となってしまっている。他人や周りだけではなく、私たちの思いや心が私たちを拘束していく。』誰でもどこかに無自覚な偏見があるものですが、無自覚な故に私たちは自ら迷いの世界をさまよい続けているのです。

一切諸法は、心を離れずと明かに知(り)ぬれば、生死輪廻永く絶(え)て、無上覚王の位に至らずと云ふことなし

ここでは唯識の教えが分かること…それは即ち自らのあり方・限界を知るということでもありますが、このことが迷いの世界からの脱出に繋がってくるのです。人生自体が変わってくるのです。

されば誰も皆、心の外に有りと思へる万物の形は、悉く是れ体性都無の法なり

ここで出てくる「体」は本質、「性」は本性といった意味ですが、そもそも自分の心を通しての外界しか見えていない。もっと言えば結局自分の心を見ているだけですから、そもそも私たちが見えている事物に体も性もないのです。何故なら繰り返しになりますが、結局展開しているのは自分の心にしか過ぎないのですから。もっと平易に言えば、私たちは常に自分の主観を通してしか物事を見ていないのです。

  心を執して実と思うも又迷乱なり。心を執して心の外に置(く)が故なり

ここは哲学的な視点でいえばデカルト的発想の否定です。私たちは我が心は本物だと思いたい…しかもそれも危ういものなのだと唯識は突き付けてくるのです。

空を執して実と思うも又迷乱なり。心の外の空の相を見るが故なり

さらに仏教の究極である「空」…これだって人生の現実を考えればそれを対象化して我が心で見ているに過ぎない。空は真実・真如ですが、こうした私が見ている真如を唯識では「識変真如」と名づけ、私たちに注意を促しているのです。

是の故に心の外に有りと覚る相は、色も心も有も無も皆悉く実の法に非ず。此(の)僻事〈ひがごと〉の形を滅し失せて、不思議の無漏智を発し、内に一心を覚るを、唯識真実の観と名(づ)く

今日のまとめです。「僻事」は間違ったことですが、唯識の教えが分かれば僻事が消え去るのだと説くのです。「無漏智」は仏様の智慧でお悟りの境地ということです。唯識が問いかけてきているのは、自分勝手な見聞きに陥っていませんか?更にそれを礎として腹を立てたり興奮してはいませんか?そういうことを一度考えてほしい。これが唯識仏教のスタートにあるのです。己の心の難しさということを脚下照顧していくのが唯識という教えなのです。