ようやく春めいてきました。命の息吹を感じる季節です。こうした山川草木という命から力をもらったり教えられたり…というのが私たちの人生ですよね。一方で灯台もと暗しではありませんが自分の命のあり方については学びが足りない人が多いように…それは僧侶という立場だからなのかもしれませんが…そういうことを最近感じるようになりました。
その感じるところをじっくり煮詰めてみると、そこには「私=ワタクシ」という塊が残る気がします。 多分学ばない多くの人は「ワタクシ」という存在を絶対視して道から外れたり人生を汚してしまっているのではないか?そんな風に感じるのです。
もう少し言葉を足していくことにしましょう。皆さんからすれば純粋にこの「ワタクシ」という実体が礎でありここに疑いを挟む余地はないかもしれません。しかしここが既に勘違いだよと仏教では説くのです。「ワタクシ」というのは硬い絶対的なものなどではなく、諸々のご縁が集まって出来上がっている一つの形に過ぎない、常に変化するこのふわっとしたものを「ワタクシ」と表現しているに過ぎないと理解するのです。仏教用語を用いれば「諸行無常 諸法無我」ということです。
では何故この点を仏教が重要視するのか?ここが大切なところです。それは「ワタクシ」の実体視という勘違いを主因として「オレはすごい」と思い上がる。はたまた「オレの物だ。絶対に誰にも渡さない」と固執したりさらには社会的に自分のものではないものまで「これはオレの物だ」と言い張ったり。爽やかさからほど遠い、場合によっては本当にはた迷惑なあり方に陥りがちだから要注意なのです。
よーく考えてみてください。そもそも私たちの命はたまたまのご縁が成じたものに過ぎないですよね。オレ様の始まりは卵子と精子という赤白の二滴のたまたまの出会い・組み合わせにしか過ぎませんよね。一条鉄な「ワタクシ」なんてものはどこにもないのです。にもかかわらず「ワタクシ」幻想を礎として妄想を展開してどうするのですか。もっと禅的な言い方をすれば「ワタクシ」なんてものがそもそもないのだから当然「ワタクシの物」なんてものもあるはずがないではありませんか。そのないものに固執して人生を汚しているのが私たちなのです。
別の表現をとれば「自分の命だって自分のものではないのだ」ということです。さらには「自分はこの命を一時預かって管理しているに過ぎない」ということなのです。このことを私たちは学ぶべきなのです。
大切なことですので繰り返しますが自分の命だって自分のものではない…私はこの命の管理人に過ぎないというのが真実相なのです。管理人なのですから勝手にこの命を汚してよい筈がありません。ここを礎とすれば、自分の財産もまたその管理・運営を任されているだけですからそれを活かすような使い方をしなくてはならないという発想になるはずです。ここを延べれば我が子だって自分のものではなく、その命が輝くようサポートするのが自らの務めとわかるはずです。そこから逆に「あぁこの私も諸々のご縁というサポートで何とか成り立っているのか」という気付きを通じてお陰様精神が発露するはずです。
しかしここには注意点も。それは「お陰様」の裏には「XXのせい」というどす黒い世界が広がっているからです。ここで禅が説くのは畢竟の世界。「お陰様」にも「XXのせい」にも引っかかることなく「ただ(只)」という坐禅の境地を以て淡々と日常を過ごしていく。実はここに爽やかな生き方が開けてくるのです。そしてこうした教え・言葉が皆さんの爽やか人生の一助になれば…そう願っています。