唯識(ゆいしき)の典籍『法相二巻鈔(ほっそうにかんしょう)』について太田久紀先生の講義録に従ってお伝えしていくシリーズの第六回です。出典の講義録を読みますと直接的な解説のみならず先生の内から溢れる言葉も多く、今回はそういった言葉から学んでいきたいと思います。
この『法相二巻鈔』という本は、人間のことが書いてあるんですけれども、その人間が、超能力を身につけたりですね、セールスがうまくなったり、記憶力を高めたりというような現世の御利益はないですね。人間が当たり前に人間として生きるということです。何かにのぼせて生きないのですね。
いかにも太田先生らしくまた仏教らしい言葉です。皆さんの中にも仏教というと漠然と「一般人が音を上げてしまうような厳しい修行をして、特別な境地を得ること」と思っておられる方もあるのではないでしょうか。しかしお釈迦様の教えというのはまさしく「のぼせない」…私朴宗なりの表現で言えば「偉ぶることなく平々凡々と生きる」これが仏教です。裏を返せば人というものはついつい「俺はすごい」「オレは特別だ」と思い上がったり反対に「私なんて駄目人間」と自虐的になってしまったり…そういうことに陥りやすい生き物なのだと思うのです。だからこそ人間には学びが必要であり仏教が必要なのです。
唯識という仏教は、人間の心というものをこういうふうになっているぞということを言葉と論理で表現します。己の心の奥底まで、細やかに説いていく仏教それが唯識の教えです。それは、当たり前の人間の生き方、そういうものを探させようとする一つの手立てだといっていいと思います。ただこの仏教には、即効性がないのです。
太田先生は「言葉と論理」と言っておられますが、更に付け加えれば「ついていけない程の論理性」と言えると思います。目の前の理屈を理解しようと追っているうちに何処にいるか分からなくなってしまうというか。私朴宗の場合は出来は悪かったものの一応大学時代は理系だったということもあり、馴染みやすい側面があったのかもしれません。しかし一般的には取っ付きづらい仏教だと思います。さてここでもう一つのポイントとなるのが「即効性がない」という点です。
仏教の基本は長い時間をかけて自分を磨きあげていく。長い時間をかけて観察を深めていく、そういうことを積み重ねていくものですね。長い時間をかけて、こういうのが人生なのだと、こういうのが生きるということなのだというようなことをですね、じーっと心の中に頂いていく。そういうのが仏教だと思いますね。
仏教には即効性の頓(とん)、じっくりの漸(ぜん)という二つの流れがあり、先生は「漸」の立場に立たれるわけです。ただここで私が留まりたいのはそこではなく『頂いていく』という表現です。ここがすごく仏教的だなぁと思うのです。「頭のいいオレ」を最も上位に据えた上で「仏教の智慧をちょっとばかり利用してやろう」ではないのです。何者でもない私が教えを「頂く」…簡単に読み飛ばしてしまいそうなところですが、とても大切なところです。
ここで思い浮かぶのは「お袈裟」です、何故ならお袈裟はまさに「頂く」ものだからです。身につける折には最初に「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生」という願いの言葉をお唱えした上で身にまとう「頂く」のがお袈裟なのです。そして法要を通じて実は皆さんにその御功徳をお分けしているのです。
その話は昔聞いたから、一度は聞いたから、わかったからもう聞かなくてもいいということではないですね。聞法は新しい情報を手に入れたり、理解したりするためにきくのではないのです。教えを何度も何度も心に貯めこむ。貯めこんだ教えが機縁あればはっと身につくということがあるのです。
これもまた仏教の深さを感じる言葉ですね。そうこの講座で私が願うところもまた、皆様の魂の奥底に仏教の言葉・教えが種として残り、いつか機縁が熟し発芽することなのです。次回以降も安穏の種を沢山学んでいきましょう。